浦和レッズは、17日午前9時21分に初代監督でゼネラルマネジャーも務めた森孝慈(享年67歳)が腎盂がんのため逝去したことを明らかにした。
訃報を受けた柱谷幸一GMは「NACK5スタジアムでのダービーのとき、お会いしたが、そのときは元気でしたが……。監督との関係づくりなど、福岡、横浜F・マリノス、浦和での経験を伝えてくれた」と語った。またきょうの磐田戦では、浦和レッズの選手は喪章をつけてプレーすることとなった。
なお、通夜は21日(木)午後6時から、告別式は22日(金)午前11時からいずれも『公益社 用賀会館』で執り行なわれる。
主な経歴(クラブ発表)
森 孝慈(もり たかじ)
1943年11月24日広島県生まれ
広島修道高校-早稲田大学-三菱重工サッカー部
現役時代は、技巧派のMFとして活躍。1964年東京オリンピック、1968年メキシコオリンピック日本代表メンバー。1968年のメキシコオリンピックでは、釜本邦茂氏、杉山隆一氏、横山謙三氏らを擁したメンバーで、銅メダルを獲得した。
1977年に引退後、ドイツなどに留学。1981年に日本代表の監督に就任した。1985年に行われたFIFAワールドカップメキシコ大会、アジア最終予選では、惜しくも韓国に敗れ、本大会出場はならなかった。
代表監督を退いた後、Jリーグ参加を見据え、三菱自動車サッカー部のプロ化、浦和をホームタウンとする業務に奔走。三菱自動車サッカー部が、浦和をホームタウンとする「浦和レッドダイヤモンズ」として生まれ変わり、Jリーグに参戦するための大きな役割を果たした。そして、1992年に、浦和レッズの監督に就任。1993年のJリーグ元年も含め2年間、監督を務めた。
その後、一旦は浦和レッズを離れ、1995年から1997年は横浜マリノスのゼネラルマネジャー、1998年はアビスパ福岡の監督を務め、1999年から2001年はアビスパ福岡のクラブに勤務した。
2002年、浦和レッズのゼネラルマネジャーとして再びレッズに戻り、ハンス・オフト監督、ギド・ブッフバルト監督のもとで、数々のタイトルを獲得し、2006年1月に退任した。
退任後も、たびたびスタジアムや練習場を訪れ、スタッフや選手、ファン・サポーターと笑顔で会話をし、浦和レッズ、そして浦和の街を誰よりも愛してくれていました。
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