長谷部誠、引退会見。レッズサポーターの熱量に触れる
会見場の特設ステージのボードには、自身のサインに加えて背番号20が記されていたが、鮮明に思い出されるのは、やはり、背番号17の、浦和レッズの長谷部誠だ。
2002年、静岡・藤枝東高校から浦和レッズに加入。1年目、順風満帆なスタートはきれなかったが、2007年1月、浦和を離れ、日本を発った時には、浦和レッズにとって、もう欠かすことのできない、出来ることならば、ずっと一緒に戦いたかった、チームの中心選手になっていた。
「ハセ」「マコ」「マコ様」
さまざまな愛称で、監督にも選手にもスタッフにも、もちろん、サポーターにも可愛がられた。先輩選手に物怖じすることなく、時に闘争心の塊から、口が悪くてピッチの中で怒られることもあった。ゴールに向かう姿勢、相手からボールを奪う瞬間、どの長谷部からも、“絶対に勝つんだ、勝たせるんだ”という気迫が伝わってきた。
そんな彼のプレーが、きのうのことのように思い出される中、とうとう、彼にもこの日が来たのかと感慨深く、きょう5月24日(金)午前、都内ホテルで行われた、ドイツ1部のアイントラハト・フランクフルトでキャリアを終えた長谷部の引退会見に臨んだ。
とても冷静に、時折、会場を笑いで包みながら、まず、自身の言葉で今の思いを語り、その後、集まった報道陣の質問に1問1問、丁寧に答えた。その様子を、最前列から、カメラを片手に見守らせてもらった。
そして代表質問が終わり、挙手すると、1番手に指名を受け、浦和レッズで過ごしたあの時間が、今の長谷部誠のどんな部分を作ったのかを、そして出会いについても振り返ってもらった。
詳細は、アイントラハト・フランクフルトの公式SNSで映像として残されているので、彼の声で確認してもらいたいが、まず、会見の冒頭で彼が語った言葉の中からの抜粋、そして、レッズプレス!!の質問に対する答えを記す。
クラブ史上初のヤマザキナビスコカップ優勝に始まり、リーグ戦におけるステージ優勝、天皇杯優勝、リーグ年間優勝、そして、アジア制覇。最初のACL優勝の立役者となった長谷部誠が、今シーズン限りで、プロサッカー選手としての人生に自らの意思でピリオドを打った。
改めて、長谷部誠選手、プロサッカー選手としての人生、お疲れ様でした。
レッズプレス!!は同じ時代を歩むことが出来て、誇りに思います。
《長谷部誠》
非常に懐かしい顔もあり、こうして、ここに座って、これだけ多くのメディアの方々がいるのは、僕にとっては非常に嬉しく思います。
本日は、私の引退記者会見に足を運んで頂き、大変感謝しています。
今回の、この日本での記者会見を開催するにあたり、アイントラハト・フランクフルト、そしてブンデスリーガ、そして、この会場を用意して下さった、そして本当にご尽力下さったホテルの方々、本当に多くの方々のサポートがあり、こうして日本の皆さんに自分の思いを伝えられることを、それに非常に感謝しています。本日は僕の22年間、23年間ぐらいのキャリアについて、キャリアが終わった今の気持ちを率直に話していければなと思っております。
先週末に、最終節、僕の現役最後の試合が終わったわけですが、1週間ぐらい経った今も、正直まだ、あまり実感はそんなに湧かないんですね。
何かこう、毎年のオフに入ったぐらいの感覚で、頭はすごく理解しようとしているんですね。自分が引退したということを、そして多くの方々にお疲れ様とか、素晴らしいキャリアをおめでとうという話をしてもらったり、そういうことをして頂けるので、頭では理解しようとしている。ただ、自分の身体が、今すぐにでもボールを蹴りたい、という風に疼いているので、身体が理解してくれないというか、そういう感覚がありますね。
ただ、それで後悔しているかと言われれば、自分のキャリアに対しては、全く後悔もしていなく、本当に大きな満足と共に、キャリアを終えられたと思っています。
なぜ、後悔がないのかと、ちょっと振り返っていたんですね。
そうしたら、1つ目はやはり、自分でこの引退の時期を決められた、そのことはすごく大きかったなと思いますね。ここにいるマルクス(スポーツ・ディレクター)をはじめ、アイントラハト・フランクフルト側が僕に対して現役を辞める、続けるという、その決断を僕に託してくれていたので、来シーズン、やろうと思えばやれた、という中でも、自分の、この良いタイミングというものを自分で決められた、それについて、非常に後悔がない気持ちが大きかったんじゃないかなと思うので、クラブに対して、非常に、マルクスに対してもそうですけど、非常に感謝していますね。
もう1つはやはり、自分をよく1人のサッカー選手として、常に客観視することをしていて、その中で、自分のサッカー選手としての能力、何かすごくたくさん点をとれるわけでもなく、何かこう、すごく目立つプレーするわけでもなく、フィジカル的にすごいとか、何かこう抜きん出たものがあるわけではない。
それと、パーソナリティーというか、人としても、全くこう目立つわけでもなく、見た目も、おそらく20年間ぐらい同じ髪型をしているので。美容室へ行っても、20年間、毎回同じ「いつもの」という感じなので。そういうサッカー選手としての能力、そして、パーソナリティーとしても目立つような発言もするわけでもなく、そういう選手が、ここまでのキャリアを築けて、タイトルもたくさん獲らせて頂きましたし、これだけ長くプレーさせてもらって、これ以上のキャリアは、自分の能力の中では積めないんじゃないかな、と。本当のMAXのMAX、評価してもらったと思うし、自分自身もやりきったんじゃないかなという、そういう思いがあるので、なので、もう1回、同じキャリアを積めるかと言ったら、正直、積める気がしないですね。だから、そういう意味で、後悔というものはないですね。
改めて自分のキャリアを振り返った時に、大きく分けて3つのフェーズに分けられると思うんですね。大きく分けると。
1つ目は、プロのキャリアをスタートした浦和レッズですね。
自分がプロ生活をスタートさせて、一番最初のクラブがやはり浦和レッズだったというのは、非常に大きかったと思います。そして、幸運だったと思いますね。大きなクラブで、日本一のサポーターがいて、そしてあの当時は、キャラクターの濃い選手がたくさんいて、あの中でプロキャリアをスタートさせられて、そして多くのタイトルも獲れて。なので、浦和でのプロキャリア、その6年間というのは、自分にとっては非常に大きかったですね。
そして、2022年にアイントラハトと共に、浦和レッズと埼スタで親善試合をして、試合後に1周、グラウンドをまわった時に、いまだに本当に多くのサポーターの方々が、17番の浦和時代のユニフォームを掲げてくれたり、日本代表のユニフォーム・17番を掲げてくれたり、もちろん、アイントラハトの背番号20のユニフォームを持ってくれている方もいましたけれど、本当に多くの方が掲げてくれた、あの瞬間というのは自分にとって、忘れられない瞬間でしたね。
レッズプレス!!の質問に対して
長谷部)浦和では、1年目はほとんど、試合にも出られずに、そして2年目に、プロ初先発した試合では、いきなりレッドカードをもらい、非常に難しいスタートを切ったんですけど、やはり、あの浦和レッズというチームで、自分が、何であそこまで成長できたかと言うと、サポーターの存在が、本当に大きかったと思いますね。
毎試合、平均しても5万人、それ以上に入る場合もありましたし、浦和レッズとアイントラハトのサポーター、この2つは本当に熱いサポーターで、その中でプレー出来て、それだけの人、それだけの応援があると、それなりにプレッシャーもあるのですけど、そのプレッシャーが自分を成長させてくれたというか。そういう意味では、ファン・サポーターとの出会いは非常に大きかったと思いますね。それだけじゃなくて、あの時代の浦和は、積極的に補強もしましたし、毎年、日本代表クラスの選手が入ってきて、そういう中で自分も競争に勝たなければいけない、その中で自分の負けん気の強さというか、そういうものも発揮して、すごく成長できたと思うので、いろいろな意味で、プロ最初のクラブが浦和レッズであったということは幸運だったと思いますね。
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