再生する

浦和レッズレジェンドストーリー、

今回は、土田尚史スポーツダイレクターと
同時期にチームに在籍し、レギュラーの座をめぐり、
切磋琢磨したGK田北雄気のお話。

Jリーグがスタートした1993年、
チームには、旧浦和市で生まれ育った
生粋の浦和人が6人在籍していた。

そのうちの1人が田北雄気だ。

プロリーグ発足に伴い、
地元のクラブでプレーすることを強く望み、
1992年に日本サッカーリーグ2部の
NTT関東、現在の大宮アルディージャから加入した
クールなGKである。

サッカーというスポーツのなかで、
何とも因果な稼業なのがGKではないだろうか。

何しろポジションが1つしかない。

試合に出場する競争率は、高くて、厳しい。
田北は、1つ年長の土田尚史と
揃って現役を引退する2000年まで、
クラブ史上、類のない、
強烈なライバル関係……というよりも、
会話もしない、
犬と猿の間柄が長らく続いたのだった。

Jリーグ最初の公式大会が開催された
1992年の秋のナビスコカップから95年まで、
全公式戦を通じ、田北が出場したのはわずか22試合。土田のほか、ミロというスロバキア人GKの控えに甘んじ、3年半にも渡って日陰の存在だった。

臥薪嘗胆。

それでも田北は腐らず、出番を信じて練習に励んだ。

辛抱と鍛錬が報われたのが96年で、
リーグ戦全30試合にフル出場。

リーグ最少の31失点を記録。

横浜フリューゲルスとの最終戦では、
PKをしずめて、GKによる初得点までマークした。

引退後は2002年から
横浜FCのGKコーチに就任して、
土田も同じく2002年から
レッズのGKコーチとなって18年まで務めた。

横浜FCで指導したGKが後に日本代表に招集されたり、
土田も、山岸範宏を日本代表に送り込むなど、
この2人は指導者としても
こんなライバル関係を長きに渡って展開した。

性格も「静」の田北に対して、「動」の土田。
どこまでも対照的な2人だった。


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浦和レッズレジェンドストーリー

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臥薪嘗胆の男、田北雄気。激しいレギュラー争いの先に/浦和レッズレジェンドストーリー

「浦和レッズレジェンドストーリー♪」は、浦和レッズの歴史を作ってきたレジェンドをラジオ風に紹介する音声コンテンツ。
今回紹介するのは、田北雄気さんについて。土田尚史さんとの強烈なライバル関係の中で、臥薪嘗胆、己を磨き続けた男の物語。


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浦和レッズレジェンドストーリー、

今回は、土田尚史スポーツダイレクターと
同時期にチームに在籍し、レギュラーの座をめぐり、
切磋琢磨したGK田北雄気のお話。

Jリーグがスタートした1993年、
チームには、旧浦和市で生まれ育った
生粋の浦和人が6人在籍していた。

そのうちの1人が田北雄気だ。

プロリーグ発足に伴い、
地元のクラブでプレーすることを強く望み、
1992年に日本サッカーリーグ2部の
NTT関東、現在の大宮アルディージャから加入した
クールなGKである。

サッカーというスポーツのなかで、
何とも因果な稼業なのがGKではないだろうか。

何しろポジションが1つしかない。

試合に出場する競争率は、高くて、厳しい。
田北は、1つ年長の土田尚史と
揃って現役を引退する2000年まで、
クラブ史上、類のない、
強烈なライバル関係……というよりも、
会話もしない、
犬と猿の間柄が長らく続いたのだった。

Jリーグ最初の公式大会が開催された
1992年の秋のナビスコカップから95年まで、
全公式戦を通じ、田北が出場したのはわずか22試合。土田のほか、ミロというスロバキア人GKの控えに甘んじ、3年半にも渡って日陰の存在だった。

臥薪嘗胆。

それでも田北は腐らず、出番を信じて練習に励んだ。

辛抱と鍛錬が報われたのが96年で、
リーグ戦全30試合にフル出場。

リーグ最少の31失点を記録。

横浜フリューゲルスとの最終戦では、
PKをしずめて、GKによる初得点までマークした。

引退後は2002年から
横浜FCのGKコーチに就任して、
土田も同じく2002年から
レッズのGKコーチとなって18年まで務めた。

横浜FCで指導したGKが後に日本代表に招集されたり、
土田も、山岸範宏を日本代表に送り込むなど、
この2人は指導者としても
こんなライバル関係を長きに渡って展開した。

性格も「静」の田北に対して、「動」の土田。
どこまでも対照的な2人だった。


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