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鈴木啓太ヒストリー|自分はまだ成長できる(「REDSPRESS EYES」より)|レッズプレス!!

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自分はまだ成長できる(「REDSPRESS EYES」より)

加入13年目の昨季、リーグ戦31試合に先発出場した鈴木啓太は、第16節・セレッソ大阪戦と第32節・サンフレッチェ広島戦でゴールを奪った。リーグ戦での年間2得点は初めての体験である。いずれも敵の陣営に深く入り込み、ストライカー顔負けの見事な一撃をお見舞いしたのだった。

C大阪戦は中央から運んで柏木陽介に預けると、さらに敵陣へと素早くもぐり込んでパスをもらい返し、先制点を蹴り込んだ。広島戦ではゴール前の密集地帯にドリブルで割って入り、マーカーを次々にかわして初のシーズン2得点を記録。「最近は2年に1点くらい取れなかったのに、どうしちゃったのかな。珍しいから気を付けて帰ろう」とおどけたものだ。

もちろん、豪胆に前へ縦へと進出する意欲はずっと持ち続けてきた鈴木だが、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任してチームに新たな息吹を吹き込んでからというもの、攻撃に加担する頻度がずいぶん増えた。

今季のホーム開幕戦となった第2節・名古屋グランパス戦では、自らドリブルで持ち運んだ後、絶品の縦パスを興梠慎三に供給し、宇賀神友弥の決勝点に結び付けた。右には梅崎司がフリーの状態でボールの到着を待っていたが、鈴木は守る側にはやっかいな縦への勝負パスを選択。「慎三が良い動き出しをしていたので、迷いはなかった」とあの場面を解説してみせた。


静岡・清水第八サッカークラブでプレーしていた小学生時代から、ボランチが専門職。ブラジルでは早くからこのポジションは「攻守の要」であり、心臓部という要職であったが、20数年前までの日本ではディフェンシブハーフとか中盤の底と呼ばれ、守備に滅私奉公するのが大きな役回りだった。

しかし、鈴木は早くから攻撃的なボランチを目指していた。プロになった2000年、浦和はJ2に陥落したが、薄氷の思いで1年でのJ1復帰を遂げた。鈴木はこの年の天皇杯全日本選手権、ホンダロックとの2回戦で公式戦にデビューし、前半43分に鮮やかなミドルシュートを決めると、「きょうは最初からゴールを決めるつもりだった」と揚々とした言葉を放っている。

2001年第2ステージ・FC東京戦で挙げたJリーグ初得点も豪快な中距離弾。右CKのこぼれ球を見事にミートして突き刺した。

かつての鈴木にはミドルシュートがうまいというイメージが定着していたが、その後は打ってもゴールの枠に飛ばない、バーを高々と越える“ホームラン”を増産するようになり、ゴールへの期待度はだんだんと薄らいでいった。

持ち味の1つであるチェンジサイドのパスにブレが生じることも多くなり、攻撃の起点になるらつ腕ぶりは影を潜め、守りに重心を置く印象が強かった。

07年は浦和でJリーグ、AFCチャンピオンズリーグ、天皇杯、クラブW杯、ゼロックススーパーカップ、A3を合わせて計51試合に出場したほか、日本代表で13試合(アウェイ8試合)をこなすなど、この年は最も出場時間の長い日本人選手となった。

この過重労働が災いし、08年はへんとう炎を発症して4月18日から1カ月近くチームを離脱。1週間も熱が下がらず、水分も取れずに点滴生活が続いた。日本代表にも招集されなくなり、5月27日のパラグアイ戦が最後の試合だった。

10年は中盤戦までほとんど控えに甘んじ、7月28日の京都サンガ戦でようやくポジションを取り戻したものの、8月14日の名古屋戦のウオーミングアップ中に右ふくらはぎを肉離れすると、復帰しても交代出場ばかり。05年度から天皇杯連覇、Jリーグ初制覇、アジア王者、日本代表定着とわが世の春をおう歌してきたが、まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」で、その後はスポットライトを浴びることがなかった。

しかし、昨季、ペトロヴィッチ監督がチーム改革に乗り出すと鈴木は伸び盛りの若手のように変身し、30歳になって新境地を切り開くことになる。「監督からは攻撃面での要求が多く、攻めの部分でもっと自信を持ってやってほしいと言われた」と内情を説明する。

もともと守備に専心させたらピカイチの力量がある。鋭い出足で敵の攻撃の芽を摘み取り、こぼれ球へ先んじ、高い危機察知能力を生かしてパスコースを寸断。守備ラインに応戦してのカバリング、サイドの選手と共闘する絞り込み、ギラギラほとばしる闘争本能……。この人の努力と経験による守備力は、日本人の中でも指折りと言っていい。

これに加えて攻めに参戦するスタイルが身に付いたのだから、鈴木はボランチの理想像に近づいたというわけだ。

今季はクサビを打ち込む回数がぐっと増えた。昨季は阿部勇樹と永田充が縦パスを配給する2本柱だったが、これに鈴木が加わったことで浦和の攻撃の幅と質が上がったことは間違いない。年齢を重ねながら自分の特長を広げられるのは、“サッカー偏差値”と技量の高さがあってこそだろう。

「攻撃面での要求もあるし、そこで自分も成長しないといけない。縦パスが多い? そうなんです。縦パスを入れないことがチームにはマイナスで、縦パスを出しても受けられない選手が悪い、受ける準備をしていない方が悪い、という雰囲気ですからね」

新しいサッカーに取り組んで僅か1年ながら、鈴木にはこの戦術に対して確信というより、相当な自信が染み込んでいるようなのだ。


11年、群馬・前橋育英高から高校年代を代表するボランチの小島秀仁が加入し、12年には阿部がイングランドから古巣に復籍。そろそろ鈴木の時代も終わるころ合い、と見る向きも確かにあったが、そんな風評被害を蹴散らすほどの変ぼう、成長ぶりを昨季から披露している。

もちろん成長したのはプレーだけでない。若いころ「浦和のボランチと言ったら、すぐに鈴木啓太と呼ばれる選手になりたい」と話していたが、今はそんな体面的な功名心はない。「これだけ長い間出場しているけど、自己満足で終わらせてはいけないと思う。人に伝えること、若手に伝えることが大事。ヤマさん(山田暢久)も同じだが、長くやってきた責任と試合に出ている責任を感じている」と表現は一変した。

Jリーグ最初の公式大会は1992年のナビスコカップ。浦和はグループリーグ初戦でジェフユナイテッド市原(現千葉)と対戦し、その時のボランチが名取篤と佐藤英二だった。あれから浦和には数え切れないほどボランチが入れ替わったが、これだけ長くこのポジションを守ってきた選手は鈴木を除いてはいない。

現時点で浦和のベストイレブンを選出したら、鈴木に投票する人は多いはずだし、11人の中に選ばれると予想する。昨季からのプレーを続けるだけではなく、さらに進化させたなら、歴代ボランチで1、2を争う選手になるだろう。

守備だけの人、という印象は確実に滅却されつつある。「自分はまだ成長できるし、成長しないといけない。それがチームの成長にもつながるのだから、もっと監督の求めに質を高めていきたい」と自らに言い聞かせる。

浦和の試合観戦に訪れた際、まず中列後方にいる背番号13の動きに着目してみたらいかがだろう。守備ラインの前でコツコツと働きバチのように地味な仕事をこなしている選手が、ある時は守備ラインを助太刀し、ある時は鋭いクサビのパスを打ち込み、ある時はドリブルで敵陣へ進出し、ある時は豪快なシュートを放つ。

今季は6年ぶりに脚光を浴びるだけの活躍が期待できる。(河野正)


浦和の男・鈴木啓太掲示板


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